茨城県 龍ヶ崎市と伊達政宗

茨城県龍ヶ崎市は江戸時代、伊達家の統治を受けていました。
写真は伊達家代々の位牌所として御朱印を受けた般若院の枝垂桜です。
推定樹齢400年とされていますから伊達政宗も見たかもしれません。


 仙台藩龍ヶ崎領
 1606年、徳川家康は伊達政宗に常陸国河内郡龍ヶ崎村を中心とした1万石あまりの領土を与えます。龍ヶ崎領は戦国時代、伊達家と奥州で争った芦名氏の領土でした。家康は新体制の下、旧部族勢力の一掃と一揆の勃発を抑えながら統治していくには、政治力、統治力に長けた伊達政宗こそが適任だと考えたに違いありません。
 仙台藩にとって龍ヶ崎領は伊達藩江戸屋敷の賄い地として重要だったとは思いますが、政宗はこれにとどまらず、江戸への廻米(かいまい)に踏み切り、宮城県石巻市からの東廻航路をひらいて、現在の北茨城、ひたちなかに米を荷揚げして江戸へ運びました。龍ヶ崎はその中継地点、管理場所としても重要な領地だったのです。ちなみにこのころ、江戸では石巻の倍の値段でお米が売れたそうですから、多少は大変でもなんとかしたかったのでしょう。さらに江戸からの帰りには様々なものが買い入れられ仙台に運ばれたのでした。
 ただ、これがあまりにもうまく行き過ぎてしまったようで後に幕府の妬みを買うことになってしまい、1663年に知行地替えされてしまったようです。

 1606年、龍ヶ崎に知行地が与えらえられたとき、家康の代官頭は大久保石見守長安という方で、知行目録はこの石見守から政宗宛に出されています。実はこの石見守は家康の6男、忠輝の筆頭家老も勤めていてました。さらにこの忠輝の正室は政宗の長女五郎八姫です。こうなると地の利がある龍ヶ崎を知行地としてほしかった政宗は、コネを利用して長安にお願いしたとも考えられますが、友好関係を保ちたいと考える家康の配慮だったとも考えられます。いずれにしろ、いつの時代も人間関係は大事なんですね。

仙台領柱。伊達政宗は町の入り口に仙台領であるしるしを建てていたそうです。(龍ヶ崎市歴史民族資料館蔵)

 龍ヶ崎市と宮城県黒川郡大和町宮床
 伊達家二代目藩主伊達忠宗は父の施策を引き継ぎ、江戸への廻米の便をさらによくするため潮来に蔵屋敷を建設し「仙台河岸」を築きました。水郷でしられる現在の茨城県潮来市には「仙台河岸」の標柱があります。

 また、忠宗は伊達家代々が崇拝する愛宕社を祭るため、1641年龍ヶ崎市根町の高台に愛宕神社を創建しました。現在残っている社殿は1708年に再建されたものと伝えられ、見事な彫刻には目を見張るものがあります。

 龍ヶ崎が仙台領になった当時の村長は師岡長門、山戸土佐という方々でした。忠宗はこの山戸土佐の娘、たけを側室に迎えます。江戸藩邸詰めが長かった忠宗は側室山戸氏とともに生活していたと思われ、記録では病気になった忠宗に2代将軍徳川秀忠が山戸氏の故郷である龍ヶ崎で養生するようにと暇を与えたそうです。

 側室山戸氏は、生まれた忠宗の八男、宗房とともに宮城県黒川郡大和町宮床に移り住み、後の伊達一門である宮床伊達家を称しました。ちなみに宮床はうちから車で10分ほどのところです。さらに宗房の子、村房は伊達四代藩主綱村の養子となり、後に伊達五代目藩主、伊達吉村を襲封し、伊達藩中興と称される名君となりました。山戸氏は自分の孫が伊達藩主になったのを見届けた1706年、94歳で亡くなったとのことです。

 1728年、伊達吉村は龍ヶ崎を訪問しています。龍ヶ崎の人々は歓迎しますが、吉村と山戸氏の関係は公にはされていなかったらしいのです。吉村は幼いころ過ごした宮床で祖母たけ(前述の忠宗の側室)と一緒にすごした時期もあり、祖母の実家が龍ヶ崎にあったことは知っていたことでしょう。龍ヶ崎を訪れ、山戸氏の菩提寺に詣でた吉村の心情は格別のものがあったと思われ、寺領をつけて龍ヶ崎を後にしたそうです。

 吉村の祖母で龍ヶ崎出身の山戸氏のお墓は、現在の宮城県黒川郡大和町宮床の覚照寺にひっそりとただずんでいます。同じ境内には息子宗房の墓標もあり、吉村の活躍をここから見守ったのでした。


伊達宗房のお墓


慶雲院(山戸氏)のお墓
 

龍ヶ崎市にある伊達忠宗が創建した現在在の愛宕神社


社殿に彫られた彫刻





覚照寺にある宮床伊達家代々の廟

伊達家と山戸氏の関係図


 
このページの参考文献 龍ヶ崎市史 近世編
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