京都府 二条城


 儀式典礼の場
 京都二条城は戦略的拠点となる他の城とは異なり、儀式や祭典が行なわれる政治的な場所として史上に登場します。この城は1603年徳川家康により造営され、その年将軍宣下の祝賀が執り行われました。3代将軍家光は本丸御殿等を造営、市民に幕府と公家との関係を示しました。
 天守は伏見城から移設されましたが1750年、落雷により消失、以後再建されることはありませんでした。二条城の性格から天守は必要なかったのでしょう。
 1867年、15代将軍徳川慶喜は二の丸御殿で大政奉還を宣言します。徳川幕府はここ二条城で250年以上の歴史に幕を下ろします。

伏見城の天守が建っていたところ

 伊達政宗最後の奉公
 1634年、3代将軍徳川家光は、公家との関係修復のため上洛します。この上洛はのちの将軍が上洛するのをためらうほどの豪華絢爛な上洛だったとされ、30万の大行列だったそうです。その上洛の露払いをかって出たのは、2代将軍秀忠より故事を託された伊達政宗でした。この年68歳。
 1636年5月21日、江戸屋敷にて家光の見舞いを受けるも5月24日卯の刻、伊達政宗は特異な時代に生まれながら伊達男として貫いた人生を終えました。享年70歳。

 政宗辞世の一首
  曇りなき心の月をさきたてて うき世の闇を晴れてこそゆく 

東大手門

 二条城御金蔵破り一件 盗まれた金塊は仙台で使われた!?
 1797年10月29日、二条城の金塊が盗まれるという事件が起こりました。当初、町奉行所では、一度たりとも攻められたことのない城なので外部からの侵入は考えれらず内部の者の犯行と想定し、調査を行なっていました。しかし、犯人は見つかりませんでした。ある日、番士が巽櫓付近を見回りしていたとき、堀の中できらきらと光るものを見つけました。そこで、堀に船を浮かべ調べてみると盗まれた金塊の一部であることが判明、盗人は外部から堀を渡って侵入したことが明確になりました。
 その後、町人からの通報で突然羽振りがよくなった職人がいることがわかります。家を調べてみると盗まれた金塊が出てきて御用となりました。白状したところによると、堀をたらいで渡り、石垣を登って、石落し(お城に備わる隙間)から侵入、金塊を着物で包み、紐をくくりつけて堀に沈め、たらいで堀を渡って紐を手繰り寄せて引き上げる、ということを何度も繰り返したということです。二条城が唯一、陥落したのはこの時だけです。ちなみに盗んだ金塊は仙台で金子に替えて持ち帰って使っていたそうです。
 参考:名城をゆく 二条城  小学館


盗人がたらいで渡ったところはこの辺

二条城写真集(写真をクリックすると大きな写真が見られます)

二の丸御殿唐門

二の丸御殿

本丸御殿
 
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