京都府 伏見城、伊達政宗伏見屋敷跡

伏見城はその豪華絢爛な外観とは裏腹に、関連した出来事は悲しいものばかりでした。
秀吉は晩年、思い通りに事が運ばない朝鮮出兵の憂さを晴らすべく壮大な伏見城の建設に執りかかりました。
しかし、大地震により天守が崩れ、たくさんの方が下敷きになり亡くなられました。
1598年、孤独と共に秀吉が薨去したのもここ伏見城です。
関が原の戦いの序章もこの城から始まりました。
後、家康が入城するも1623年、短命でありながら
数々の悲しい出来事の舞台となった伏見城は破却されました。


 桃山御陵
 伏見城は現在の桃山御陵(明治天皇の御陵)のある場所に本丸があったとされています。現在は御陵のため入ることはできませんが、昔は入れたらしく、石垣が残っているらしいです。伏見城跡を見て驚くのはその大きさです。町全体が城の中に入っているような広大な面積を誇り、まさに天下を統一した秀吉らしい造りだと思いました。
 残念ながら当時の東北地方でこれだけの城を築ける武将はいなかったと思います。現代人の私ですら圧倒されます。にもかかわらず、秀吉にこびたり、ひるむことなどなかった伊達政宗のすごさが改めて確認することができました。まさに伊達男。
 

 
 御陵に続く階段は230段、一気には登れませんでした。この階段(道)は伏見城当時は無かったと思います。じゃないと敵が容易に本丸に近づけてしまいます。

 伊達政宗伏見屋敷
 伏見にある現在の海宝寺近辺は、伏見城が健在時の伊達家の上屋敷として秀吉から与えられた場所です。政宗も1年以上をここで過ごしたとされています。また、政宗の正室、愛姫はもっと長い間京都に在り五郎八姫を出産しています。
 境内はきれいに整備され、宮城県人としては大変うれしいかぎりでした。この日もちょうど庭師の方が植木の手入れをされていました。どうもありがとうございます。
 境内には政宗が手植えされたという「もっこく」の木が現存していました。樹齢は400年を超えているということですね。
 
 京都に在って仙台を感じられる海宝寺は宮城県の方の観光にお勧めです。

 豊公伏見城の図
 当時政宗は秀吉に大変気に入られていたようで、長子で宇和島藩主祖伊達秀宗の「秀」の字は秀吉からいただいたものです。ここ伏見屋敷の敷地面積が他の武将に比べて格段に大きいのは何よりの証拠かと思われます。右の図は「豊公伏見城の図」と言う伏見城健在当時の諸大名の屋敷図です。あまり大きいので伏見城近辺を切り取っています。図をクリックすると拡大画像が表示されます。これを見ると政宗の屋敷がいかに大きかったのかお分かりになるかと思います。またこの屋敷図に書かれている武将の名前はこの後勃発する関が原の戦い、大阪の陣に登場するビックネームが数多く記載されています。
 
この図は桃山駅近くの私が泊まった「桃山いろは旅館」のご主人からいただきました。ご主人は相当歴史にお詳しく、私のマイナーな質問にも丁寧に答えてくれました。料理もおいしく、建物も風情がありました。ぜひまた行きたい旅館です。
 

伊達政宗伏見屋敷(海宝寺)写真集(写真をクリックすると大きな写真が見られます)

政宗が植えたもっこく

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