奈良県 柳生の里

柳生の里である奈良県柳生町は京都府との県境にあります。上の写真は柳生家の家老屋敷です。
この屋敷は一時人の手に渡りましたが、大先生である山岡荘八先生が買得なされました。
NHK大河ドラマ「春の坂道」の原作はこの屋敷で構想を練ったと言われています。後、先生の遺言によりこの屋敷は奈良市に寄贈されました。


 柳生一族と伊達政宗
 無刀取りで有名な柳生新陰流、その祖先は倒幕失敗で都落ちした後醍醐天皇に「南に頼るべき大きなくすの木があります」と大南公、楠木正成を紹介したと言われています。
 柳生家の出で剣豪で有名な柳生十兵衛がいますが、彼の祖父が柳生新陰流の開祖で柳生石舟斎宗厳という方です。新陰流は人を痛めつけるための技ではなく、人を生かす「活人剣」こそがその極意とされ、それゆえに無刀取りという神技にいきついたのだと思われます。
 石舟斎の子息に柳生宗矩という徳川家康、秀忠、家光三代に指南役として仕えた方がいます。将軍の警護、相談役、諜報活動など仕事は多岐にわたり、まさに徳川の右腕として活躍しました。この柳生宗矩と伊達政宗は親友のようなライバルであったと想像しています。宗矩の甥、柳生権右衛門は伊達政宗の兵法指南(剣術指南ではない)として仕えていますが紹介したのはおそらく宗矩だったと思います。また、宗矩の門弟、狭川新三郎というかたも伊達家の指南役として仕えています。
 よく、伊達政宗は謀反のチャンスが2度あったにも関わらず、それを実行しなかったのはどうたらこうたらという話を聞きます。チャンスとしてはひとつは関が原の戦いの時、もうひとつは大阪の陣のときです。個人的な見解ですが、この二つの謀反を思いとどめさせたのは柳生宗矩じゃないかと考えています。戦う前に勝負を決し、相手を生かして活用してゆく、柳生新陰流の理にかなった出来事です。後、伊達政宗は徳川家にとって無くてはならない存在になっていきます。これこそが新陰流だからこそできた歴史上表舞台に上がらなかった戦いの無かった戦いだったのかもしれません。
 

柳生宗矩のお墓。みなさん、お墓を前にしたらとりあえず手を合わせましょう。


柳生の里写真集(写真をクリックすると大きな写真が見られます)

石舟斎が一刀の元に切ったとされる巨石。後の人々はこの巨石を「一刀石」と呼ぶ。石舟斎が本当に切ったかどうかが問題ではなく、この石が柳生の里にあるということがすごい。

柳生藩陣屋跡。戦が始まれば本陣となるべきところ。でも私が思うにこれはダミー。

陣屋跡の対面に見える芳徳寺。あっちがおそらく本陣になったでしょう。宗矩ならこのくらいは軽くやるはず。

柳生家菩提寺芳徳寺の門。
       

石舟斎の師、上泉伊勢守のお墓。

中央にある枯れた木が十兵衛杉。柳生十兵衛が植えたとされる。そういえば十兵衛も独眼竜。

京都から柳生の里に向かう道。雨の中歩きました。さすがに険しい。
       
柳生の里から京都(笠置)に向かう道中
 
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