白石市 白石城とその近辺
 1591年、豊臣秀吉は全国をほぼ手中に治めました。その際ここ、白石は信長の妹婿、蒲生氏郷の所領となりました。伊達政宗は米沢から岩出山に移ります。1598年、白石は上杉領となりその家臣が白石城に入ります。1600年、天下分け目の関が原の戦い時、伊達家は東軍につき、上杉家は西軍につきました。東北での関が原の戦いはここ白石城から始まります。
 戦いの後、白石城は政宗の側近中の側近、片倉小十郎景綱が城主となります。

 
 白石城の近くには片倉家代々の廟所があります。景綱のものは中央に位置します。景綱の功績はいまさらながら語る必要もありませんが、政宗の知恵袋、用心棒、相談相手とまさに伊達政宗の右腕にあたる人です。その人物は徳川家康も認めることとなり、一国一城制がしかれた状況下で仙台のほかにここ白石にも城を持つことを許されたとしています。
 
 これは私見ですが、政宗の家臣の中で一番自分の仕事を全うして亡くなったのは景綱だったと思います。戦国という特異な時代に生まれておきながら、主である政宗を補佐し、死なせることなく戦国時代を駆け抜けさせ、明治時代まで安泰した仙台藩の礎を築きあげました。1615年、大阪夏の陣が終わり天下泰平が始まったこの年、景綱公は60歳の生涯を閉じました。なんの心残りもなかったことでしょう。かく在りたい。


 右の写真は景綱のお姉さん、「喜多」のお墓です。喜多は政宗公の幼少時代の保育係で政宗の人格、思想に大きく影響を与えた賢婦人です。政宗幼少時代は虎哉禅師に教育を受けていますから、乳母だった喜多もその影響は少なくなかったと思います。
 景綱公の戦印は「黒鐘」でした。現在の白石市の市章にもなっています。この「黒鐘」の意味するところは「天下にその名を鳴り響かせよ」という喜多のアイデアとされています。なんというセンスと厳しさでしょうか・・・。


 右の写真は政宗公の正室、愛姫の父、田村清顕のお墓と愛姫の母のお墓です。田村清顕のお墓は白石市にありますが、愛姫のお母さんのお墓は仙台市の輪王寺にあります。ちょっと離れているので、せめてこのページだけででもと思い隣合わせにしておきました。余計なことだったりして・・・。
 ちなみにここ田村清顕の墓所には真田幸村の息女、阿梅の墓標もあります。大阪の陣で死を覚悟した幸村は娘に自分の戒名を持たせ、片倉小十郎(2代目)に預けたとされています。敵将からも片倉家は認められた武将だったことが伺えます。
真田幸村息女、阿梅のお墓

愛姫の父、田村清顕と愛姫の母のお墓
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