岡山県 岡山城


 主な城主
西 暦 城 主 備 考
1573年 宇喜多 直家
1582年 宇喜多 秀家 幼いおりに家督を継ぐも秀吉に後見され、最年少として豊臣政権五大老をまかされる。
1600年 小早川 秀秋 豊臣秀吉の正室、北の政所の兄の子。
1603年 池田 忠継
1615年 池田 忠雄
1632年 池田 光政 陽明学派の中江藤樹を師とし、高弟の熊沢蕃山を側近におく
1673年 池田 綱政 日本三大名園の一つ後楽園の造営に着手
1746年 池田 継政
1758年 池田 宗政
1782年 池田 治政
1817年 池田 斉政
1829年 池田 斉敏
1842年 池田 慶政
1863年 池田 茂政
1868年 池田 章政


 岡山城写真集(写真をクリックすると別画面で大きな画像が見られます。)
岡山城,はまたの名を
鳥城(うじょう)と呼ぶ。
旭川と烏城
   
烏城と有明の月 内堀
   
不明門(あかずのもん)
   
旭川を泳ぐ金シャチ
 
 宇喜多秀家と小早川秀秋
 宇喜多秀家は幼くして宇喜多家を相続しました。その相続に難色を示したのは織田信長でしたが、羽柴秀吉に嘆願、後見され、後に豊臣政権五大老まで登りつめました。このとき若干27歳。太閤秀吉が崩御すると日本では東と西に別れた天下の分け目、関が原の戦いが勃発、宇喜多秀家は亡き秀吉の大恩に応えるべく西の代表武将として家康に立ち向かいます。
 一方、小早川秀秋は、秀吉の甥に当たり一時は養子縁組をしていました。関が原の戦い時、当初は西の武将として東軍と対じするも抜群のタイミングで寝返ります。これに激怒したのは宇喜多秀家でした。同じように秀吉に恩を受け、養子になっておきながら寝返った小早川秀秋の去就が許せなかったのでしょう。
 戦いの結末は東軍の勝利で決しました。宇喜多秀家の居城だった岡山城に配されたのはなんと小早川秀秋でした。さぞ無念だったことでしょう。しかし、小早川秀秋も在城わずか2年足らずで他界してしまいます。いやはやなんとも・・・。
 ちなみに宇喜多秀家、小早川秀秋、両者の名前に使われている「秀」の字は豊臣秀吉から与えられたものでした。 

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