名取市 熊野那智神社と実方中将のお墓
 仙台市の南にある名取市に用事があったので行ってきました。右の写真は那智神社の近くにある見晴らし広場というところから、東に向いて撮った写真です。開発の進む名取市街と閖上の海が見えました。写真へたくそですいません。実は名取市には我が母校があり、私の第2のふるさとです。最近名取市は開発が進み昔(10年位前)とはだいぶ変わりました。町はまるでシムシティを見ているような感覚です。この日は雨上がりで見えませんでしたが、晴れていると金華山まで見ることが出来るそうです。

那智神社は高館山自然レクレーション施設という自然散策路内にあります。他にも那智の滝や館山堤、釣り鐘堂などがあり、バーベキューなどができるところもありました。第2のふるさとなので若干ひいき目がありますがいい所だと思います。
 右の写真は那智の滝。名取市史によると那智の滝のお不動様は目の不自由な人を助ける信仰があり、滝の水で目を洗うと良くなるそうです。私も最近視力が落ちてきたので洗っておけば良かった。また、日照りの続いた時には雨乞いも行なったそうです。
 


釣り鐘とあじさい。社殿撮るの忘れてしまいました。那智社は五穀豊穣と漁の神様として信仰されています。また、高館山の高所に位置していたので航行の安全を約束してくれたそうです。
 実方中将のお墓(実方中将と清少納言の個人的見解)
 実方中将(藤原実方朝臣)は平安時代の歌詠みとして有名です。宮中勤めの女性に大変人気があり、プレイボーイだったという見方もありますが、私はそうは思いません。
 枕草子で有名な清少納言との恋話は有名で実方中将とやり取りした歌は興味深いものがあります。

とある日、実方中将が不始末を犯してしまい、みちのくへの左遷が決まりました。その時の清少納言の歌が

「思ひだにかからぬ山のさせも草誰か伊吹の里は告げしそ」

解釈は人それぞれでかまわないと思いますが、実方の左遷話を聞いて驚いているのかなと思います。で、実方中将が清少納言に送った歌が

「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」

言うに言えない自分の気持ちってところでしょうか。さらに清少納言が

「とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河袖のわたりはあらじとぞ思ふ」

別れるのが悲しすぎて袖が涙で濡れていますというような内容でしょうか。とにかく二人はただならぬ関係にあったようです。
あと、面白いのが藤原行成という実方のライバルに清少納言が送った歌で

「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」

どうも行成っていう人は清少納言に気があったらしく、この人が実方を左遷させたという説もあります。

残念ながら実方中将と清少納言は結ばれませんでした。実方はここみちのくの地で不慮の事故で亡くなってしまうのです。生前、みちのくで実方が残した歌に

「みちのくの阿古耶の松をたづねわび身は朽ち人になるぞ悲しき」

言い伝えでは都に帰りたかった実方が、亡くなった後に雀になって京都に帰っていったと言われています。

実方の死から約200年後、西行がみちのくの実方のお墓に立ち寄った時の歌。

「くちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯れ野のすすき形見にぞ見る」

さらに500年後、松尾芭蕉の俳句。

「笠島はいづこ五月のぬかる道」

次に残るのはどんな歌でしょうか・・・。


実方中将の有名な歌。
「桜がり雨は降りきぬおなじくは濡るとも花の陰にくらさむ」
(花見の最中に雨が降ってきた。どうせ濡れるのならば花と共に濡れましょう)


             実方中将のお墓
 おまけ 名取熊野三社と名取老女
 名取市には「名取熊野三社」が設立されています。これは名取老女と呼ばれる紀州の熊野権現をあつく信仰していた方の徳によって建てられたと伝えられています。この名取老女が出てくる言い伝えの中にある歌が

「道遠し年もいつしか老けにけり、思いおこせよ我もわすれじ」


という歌です。これが実方中将が清少納言に送った歌だとしたらどうでしょうか?
つまり名取老女が清少納言という仮説です・・・。
紀州、和歌山県にある熊野三山が最も栄えたと言われるのが実方が陸奥守となったころからで、別当の長快が実方の子供とも伝えられています。
偶然か必然か・・・。
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