松山町 千石城址(コスモス園)

 千石城址は平安時代、遠藤盛遠(文覚上人)が構築したと伝えられています。この方は吉川英治先生の「新・平家物語」では欠かせない人物です。現在はコスモス園として整備され、春の桜、初秋のコスモスときれいな花を見ることができます。
 松山町のシンボルで、憩いの場であるコスモス園ですが、戦国時代は伊達領に属し、大崎領との境を成す重要な城でもありました。涌谷町涌谷城、小牛田町鶴頭城、古川市師山城と大崎の要害が鳴瀬川を挟んで対峙していました。この時、千石城を居館としていたのが盛遠の子孫である遠藤高康。高康は伊達政宗の後押しにより三千の兵で鶴頭城を攻めました。しかしこの戦いは伊達vs大崎のような大きな戦にはならず、和睦がなりました。この和議を成立させたのが大崎四家老の一人、中目隆政。隆政は伊達びいきの人で伊達との戦を極力避けたかったのでしょう。しかし、1588年伊達軍の大崎攻めが決定、ここ千石城に伊達軍が集結し古川市師山城、加美町中新田城を攻めました。結果は大崎軍の反撃により伊達軍は惨敗しました。
 


毎年9月下旬にはコスモスまつりが開催される。
 1590年、豊臣秀吉が小田原の北条攻めを行なう際、参戦できなかった大崎氏はその後の奥州仕置きにより滅亡します。大崎領は秀吉家臣、木村氏に与えられました。しかし、大崎領で悪政しく木村氏に対して住民が一揆を起こします。伊達政宗はその一揆を平定するため千石城に入城。大崎残党を含む一揆軍を鎮圧して、政宗は拠点を米沢から岩出山に移し、新たに大崎を統治することになりました。新領地となる大崎の経営を重要視した政宗は、大崎領の各新城主に重臣を配します。千石城の城主には伊達一門筆頭、石川昭光が配されました。

土留めのシロアリが食べた跡

桜も綺麗なコスモス園
 関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年、松山は茂庭良元が新領主となりました。良元は伊達政宗の重臣中の重臣、茂庭綱元の子息です。ちなみに綱元は栗駒町に移り住み、生涯を終えました。
 争いがなくなった江戸時代に茂庭氏は新田開発を進め、鹿島台町の品井沼干拓にも着手し近代の志田郡を構築していくのでした。

参考:松山町史、豊饒平野 伊藤卓二著


本丸跡
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