栗原市 旧栗駒町 鶴丸城址と茂庭綱元のお墓
 栗駒町岩ヶ崎を見下ろす高台に鶴丸城址はあります。鶴丸城は鶴舞城とも呼ばれその昔鶴が群をなして飛来し、朗報をもたらしたことからこの名がつけられたそうです。戦国時代、この地域は奥州探題の大崎氏、奥州総奉行の葛西氏両氏の境界に当たり、長い間争奪戦が繰り広げられた地域でした。ここを居城としたのが葛西氏の流れをくむ富沢氏。富沢氏は葛西の出ではありますが、場所が場所だけに、ある時は葛西氏に、ある時は大崎氏にと帰属を変え、また、度々兵乱も起こしました。
 1573年、室町幕府が滅亡したこの年、葛西氏が栗駒郡を制圧し、富沢氏も葛西側に復帰しました。しかし、富沢氏は反乱を起こします。葛西領ではこの時期から内部で反乱が相次ぎ、その鎮圧に没頭させられます。このことが葛西家が滅亡する要因にもなってしまったようです。

鶴丸城本丸
 1590年、豊臣秀吉は小田原の北条を攻めます。この時、東北の各武将も参戦するよう要請がありました。しかし、葛西家では内部での反乱が治まっておらず参戦することができませんでした。後、秀吉は小田原攻めに参戦しなかった葛西、大崎の領地を没収、新たに家臣の木村吉清、清久父子に領地を与え、長い間この地を収めた葛西大崎両家は滅ぼされました。
 同年、木村父子の悪政に耐えかねた領民と復興を目指す旧家臣らが一揆を起こします。しかし、伊達政宗と秀吉の中央軍により鎮圧され、旧大崎葛西領は伊達領に封されるのでした。
 江戸時代に入り、岩ヶ崎には伊達政宗の五男、宗綱が新領主として配されました。その後、石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏、中村氏と移封され明治維新に及びました。


同町、円鏡寺山門。鶴丸城門の一廓とも言われる。
 栗駒町には茂庭綱元のお墓があります。綱元は政宗の家臣中の家臣とも言うべき人です。1585年の人取り橋の戦いでは父良直と共に参戦、父は討ち死にしてしまいますが、勝利に導き茂庭家の礎を築き上げました。
 朝鮮出兵の際には九州名護屋で秀吉に拝し、その人柄が気に入られます。もともと鬼庭姓を称していましたが、茂庭姓に改めさせられ、また、秀吉の側室「香の前」を頂戴して政宗に献じたという逸話もあります。後、仙台御留守居として政宗不在の時の藩政を委任され、政宗の五男宗綱が鶴丸城主となる際にはその後見役となりました。
 宗綱が亡くり綱元は入道し供養に励みました。その後、政宗公が70歳で亡くなると綱元は政宗と宗綱の冥福を祈る日々を送り、1640年、92歳でその生涯を閉じました。月日の命日は政宗公と同月同日だったといいます。ちなみに子息は松山町に領地を賜り善政をしきました。




参考:栗駒町史、葛西一族(河北新報社編集局編)

綱元が生前に造った大仏様で自身の墓石。
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