京都府 笠置寺

笠置寺がある笠置山は京都の南、奈良県との県境に位置します。笠置寺の歴史は古く、2000年も前から信仰の対象となって
いました。1331年、鎌倉幕府の打倒を夢見た後醍醐天皇でしたが、足利尊氏によりその夢は破れ、ここ笠置寺に落ちます。
ここ笠置の近くには柳生一族が住んでいました。後醍醐天皇に「南に頼るべき大樹があります」と楠木正成を紹介したのは
後の徳川幕府指南役、柳生宗矩の先祖たったと言われています。


 多賀城の若獅子・北畠顕家
 足利尊氏らに捕らわれた後醍醐天皇は配流の身となります。この頃の尊氏はまだ鎌倉幕府の御家人です。一方、すでに力を失いつつあった鎌倉幕府を倒そうとする動きが各地で起こります。中でも後醍醐天皇の勅命を受けている楠木正成らの活躍は後世に語り継がれるものとなります。千の兵で尊氏軍数万を千早城にこもって持ちこたえた姿はまさに軍神たるものでした。
 その後、尊氏は鎌倉幕府に対し反旗を翻し、これを倒します。征夷大将軍となった尊氏は権力掌握のため京都を制圧、復帰した後醍醐天皇を延暦寺に行幸させます。これを知った陸奥鎮守府将軍・北畠顕家は多賀城から京を目指し軍を出発させます。このとき、1週間はかかるであろう京までの行程をわずか4日で馳せ参じ、虚をつかれた尊氏は九州まで落ち延びます。
 九州で力を取り戻した足利尊氏は再度、京を目指し湊川の戦で楠木正成を破ると難なく入京、後醍醐天皇を再び落ち延びさせて、室町幕府を開きます。南北朝時代が始まりました。
 南朝側の北畠顕家は新幕府軍と激戦を繰り返します。鎌倉を打ち破るとさらに西上、次々と足利軍を倒していきますが、1338年5月、石津の戦いでついに命を落とします。陸奥にあってその意思は常に後醍醐天皇の元にあった鎮守府将軍・北畠顕家、その行動力と一途さはまさに若獅子たるものでした。享年21歳。

 後醍醐天皇の笠置に落ち延びた際の歌
「受かりける 身を秋風に誘われて 
 おもわぬ山の 紅葉をぞみる」


笠置寺写真集(写真をクリックすると大きな写真が見られます)

弥勒大磨崖仏、高さ15.6m

虚空蔵磨崖仏、高さ12m


もみじ公園の紅葉
       

後醍醐天皇行在所

笠置駅から笠置山

笠置の霧
       
 
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