岐阜県 岐阜城
美濃を制するものは天下を制する・・・武をもって天下を治める信長の夢、天下布武の構想はここから始まった。難攻不落の城岐阜城


 主な城主
西 暦 城 主 備 考 宮城関連の出来事
1549年 斉藤 道三 いわずもがな 伊達家、大崎家、葛西家の三国志状態
1554年 斉藤 義龍 道三の長男
1561年 斉藤 竜興 義龍の子
1567年 織田 信長 稲葉山城を攻め、後の天下人、木下籐吉郎の功により落城せしめる。名を岐阜城と革める。 この年、伊達政宗が米沢で生まれる。
1576年 織田 信忠
1582年 織田 信孝 本能寺の変、信長自刃。信孝は柴田勝家と結ぶも秀吉に攻められ落城。
1583年 池田 元助
1585年 池田 輝政 政宗の父、輝宗殺害される。人取橋の戦い
1591年 羽柴 秀勝 政宗、岩出山城に居城を移す。
1592年 織田 秀信 幼名:三法師
1601年 廃 城 関が原の戦いの後、岐阜城はその役目を終える。
(西暦と城主は岐阜城に掲示されていたものです。)


 岐阜城写真
   
織田信長像(たぶん複製) 長良川。川辺に見える水色は花火大会の場所取り用の
ビニールシート。この写真には写っていませんが、
左奥には木曽川も見ることができる。
   
うーむ・・・、これなら確かに天下を望むかもしれません。 当時の「しゃちほこ」と受付の方は言っていた。
   
城下から光学3倍ズーム。 兵糧攻めされた場合の井戸。4箇所ある。


 岐阜城は難攻不落か?
 トップにも書いてありますが、天然の要害に囲まれた岐阜城は一見すると難攻不落の城に見えます。実際に岐阜城を見てもどうやって攻めたらいいのか見当がつきません。しかし、戦国時代、岐阜城(稲葉山城)は結構攻められ、落城しています。
1567年、織田勢が攻め秀吉の策により落城、1582年、柴田勝家と結んだ織田信孝がこれまた秀吉に攻められて落城、1600年、関が原の戦いで福島正則、池田輝政らが攻め、落城など、比較的落城した回数は多いです。ただし、これは他の城と違って岐阜城は重要拠点であり、誰であってもこの城は攻略しておかなければならないと考えるので城攻めされる回数や攻める軍の必死さはおそらく他の比ではなかったと思います。
 羽柴秀吉の諸葛孔明、竹中半兵衛重治は1564年、たった17人の手勢で岐阜城を攻略してしまいました・・・。うーむ・・・、半兵衛恐るべし。
 
 
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